6月18日は海外移住の日です。
あまり聞きなれない記念日ですが、その由来は日系ブラジル人の歴史と深い関わりがあります。
今から100年以上前に、700人を超える日本人が、笠戸丸(かさとまる)という船に乗り、新天地ブラジルに向けて出発しました。
約2カ月の船旅を経て、1908年6月18日にブラジルのサントス港に入港しました。
その日にちなんで、6月18日が「海外移住の日」に制定されました。
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移民の理由
新天地での、豊かな生活を求めて出国した日本人でしたが、現地で待っていたのは、厳しい生活環境と過酷な労働という現実でした。
ブラジルでは、1888年に奴隷制度が廃止されて以来、コーヒー農園での人出不足が社会問題となっていました。
一方の日本は、1904年の日露戦争後の影響で、経済が混乱に陥り、失業や貧困が問題となっていました。
人出不足を解消したいブラジルは、日本人移民への期待を寄せるようになりました。
その結果日本政府は、日本からブラジルに移民を送り出すことを決め、条件を付けて移民希望者を募りました。
そのようにして、今から100年以上前に、日本人がブラジルに渡ることになったのです。
金が成る木の話
ブラジルには金が成る木がある、といううたい文句に誘われ、当時の日本人はブラジルに渡りました。
実際に、日系ブラジル人の夫の家族史資料にも、金の成る木について言及があります。
金が成る木というのは、コーヒー豆の木のことを指していたのかもしれません。
ブラジルに行きさえすれば、コーヒー農園で一財産が築ける、という口上だったのではないでしょうか。
ふたを開けてみれば、金の成る木どころか、生きのびることさえ過酷な環境が待っていました。
重労働な上に、まともな賃金も支払われず、筆舌に尽くしがたい状況でした。
農園に残る者もいれば、その生活に耐えかねて別の地に移る者もいました。
やがて、日本人たちは新たな土地を開拓して、日本人の集落を形成していきました。
夫の祖父は、日本人の集落が形成され始めたころの時代に、笠戸丸とは別の船でブラジルに移りました。
サトウキビ畑を開墾して、サトウキビからお酒を造る事業を始めたり、バナナ農園を開いたり、漁業を始めたりして、開拓者たちと共に、ブラジルでの生活を切り開いていきました。
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ブラジルで会った日系人
私がはじめてブラジルを訪れたときの話です。
日系ブラジル人の夫の祖父は日本人です。すでに他界していますが、大晦日の親族会で、日系人の親戚の方たちに会うことができました。
私がポルトガル語が全く話せかかったにも関わらず、親族会では日本語を話せる方がいたので大変うれしかったです。
すでにご高齢の方が多いですが、2世の方までは日本語を話せるような印象でした。
「私たちが話すのは、昔の日本語だからね~」
と大変謙遜されながらも、違和感は感じさせず、むしろ、日本からはるか遠く離れたブラジルで生まれ育った方と、日本語でお話をするのはなんとも不思議な感じでした。
普段日本語は話さない若い方でも、知っている日本語であいさつをしてくださってとてもうれしい気持ちになりました。
お話しをした方はみな、日本に対して親しみを持ち、いいイメージを持っているようでした。
会場には日本風の庭園もありました。
そこには蓮の池があり、日本の太鼓橋が再現されていました。
日本から遠く離れた地にいても、ルーツである、日本の文化を慈しむ心が、新天地を目指した先人の方から引き継がれているように感じられました。
日本人植民100周年を記念してサンパウロ州イグアペで作成されたマンガ冊子です。こちらも合わせてご覧ください。